自死と自死予防の研究

自死に対する誤解と偏見 1 自死する人は無責任、心が弱いのか?2 自死する人に家族が気づかないのは、家族に問題があるのか? このバーをクリックしてください

1 自死する人は無責任、心が弱いのか?


自死する人は、無責任なのでしょうか。心が弱すぎるのでしょうか。  違います。自死する人は責任感が強すぎるのです。

よく自死報道があると、ネット等で、その人は責任感のない人だとか、残された人の悲しみを考えなかったのか等という論評がなされます。これは、全くの誤解です。

 私は、何十件も、自死の事件を担当し、自死者の生前の様子を調査しているのですが、例外なく、責任感の強い人たちです。

うつ病が重篤化して、まぶたを動かすのもおっくうなほど疲れきったお父さんは、ほとんど感情というものを持てなかったはずなのに、子どもたちを楽しませようと、唯一の自由な時間である日曜日の午前中、映画に連れて行ったり、自転車公園に連れて行っています。そして午後に仕事に行くわけです。おそらく、残された心の力を振り絞って、家族のために貢献したのだと思います。20歳そこそこの工場長は、いうことを聞かない中高年の部下が、雨が降ったからと仕事を早退してしまっても、一人工場に残って徹夜で作業をし続けました。ほかの営業担当はそれを見ていたはずですが、手伝いもしませんでした。同じく20歳そこそこの従業員は、いくつもいくつも仕事を押し付けられ、土曜日、日曜日も会社に出続けました。

 みんな逃げなかったのです。普通は、少なくとも私は、逃げます。でも、解決を目指して逃げないという責任感が強すぎたものだから、「不可能」が自死者の心を支配してしまったという印象です。自分が自分の役割を果たせないという焦りが、負担感を募らせ、冷静な思考力を失わせ、「この仕事を遂行するか、死ぬか」という狭い選択肢から抜け出せなくなるようです。その選択肢はさらに狭まり、「死ぬか、生きるか」になり、「この方法で死ぬか、思いとどまるか」になり、「この方法で今死ぬか、思いとどまるか」と、だんだん具体的になってしまうようです。自由意思で、冷静に考えて自死する人は見たことがありません。

 だから、死にたくて死ぬ人はいないのです。役割を果たしたいという責任感と、それを許さない周囲の理不尽な事情が、その人を死ぬ選択肢を選ばせてるべく追い込んでいるという方が正しいと考えます。

心が弱ければ、私のように逃げ出すので、自死には至りません。心が強すぎるから、心が折れるのでしょう。

自死する人は責任感が強すぎます。

2 自死する人に家族が気づかないのは、家族に問題があるのか?

 どうしてこうなるまで気づかなかったの、などと、家族を責める人がいます。善意で話しているのでしょうが、自死することに気がつかないのは、家族に問題があるのでしょうか。

いいえ違います。

自死に気がつくことは、相当訓練をしても難しいです。家族思いな人こそ、家族に苦しみを隠してしまいます。

自死する前に、何らかの精神疾患に罹患しているということがいわれ、その多くがうつ病だと言われています。

うつ病一つとっても、気が付きにくいということを、北海道大学名誉教授山下格先生は、ご著書の「精神医学ハンドブック」(甲第3号証)84頁において、以下のようにおっしゃっています。

うつ病の精神症状に関して、注意すべき点が二つある。すなわち、①うつ病者がいかにも憂鬱な表情で、口数も少なく、うなだれているというのは、かなり重症のうつ病の場合のみで、絶対多数を占める軽症ないし中等症のうつ病者は、苦痛に耐えながらも相手に気取られぬように努力して、なめらかに話し、にこやかに笑顔を浮かべて応対することである。そのため、家族・同僚・診察者も、本人がそれほど苦しんでいると思わない。それが上記の誤診をまねき、突然の退学届・辞表・自殺企図に周囲がおどろくもとになる。」

あの子どもたちを映画館や公園に連れて行ったお父さんも、同じように振舞ったのでしょう。自死の前の日に、家族サービスをしたり、家族を安心させようとしたりした人たちのエピソードは多くあります。

なにせ、自死の直前は、働き過ぎの状況の場合が多く、他人から見ても、働き過ぎで疲れているんだなと思ってしまうのです。あるいは、病気が進行している場合は、なかなかよくならないなと思ってしまうのです。よく言うような事故傾性に気がつくことは容易ではありません。本人が隠すのですから。気がつくはずだという訳知り顔の態度は、厳に慎まなくてはなりません。

それから、過労自死では、家族と顔を合わせないくらい働いているという事案が多いです。なにせ本人が、家のことを何もしないで深夜まで働いているので、残された家族は、家事をして、子どもの世話をして、クタクタになっています。毎日、毎日起きていることは難しいです。自分も翌日仕事であれば尚更です。

問題があるのは、働かせ方、周囲の環境なのです。

このページでお話したことは、私の弁護士としての業務実感と訴訟や労災認定で必要であるため勉強した内容でお話しているので、弁護士としてのホームページに掲載しました。もっと詳しい内容については、人間関係の紛争の原理をお読みいただければ幸いです。

自死のメカニズム 1 始まりは「生きたい」という意欲(対人関係的危険) 2 危険解消要求 3 危険解消要求の肥大化の影響 4 死を望む心理 危険解消要求の絶対化 5 希死念慮から自死へ  このバーをクリックしてください

自死のメカニズム

1 始まりは「生きたい」という意欲(対人関係的危険)


 人間も動物ですから、生きていたいという意欲があり、生きるための生理的仕組みが自動的に作動しています。
 生きたいという意味が、他の動物と人間では大きく異なるところがあります。人間は他の動物と同様に生物学的に生きたいと感じるだけでなく、人間として生きたいという要求があり、それは、「人間として仲間の中で尊重されて生きたい」という切実な要求を持っています。
 生きたいという要求に反する事態があると、つまり危険を感じると、他の動物と同様に、その危険に対する生理的反応が起きます。生物学的に生きていたいということに反する危険があると、交感神経が活性化され、血圧が上がり脈拍が上がり、体温が上がり、その他いろいろの生理的変化が起き、危険を回避する行動であるところの「逃げる」、「闘う」という行動を起こしやすくしています。筋肉を動きやすくすると言っても良いと思います。
 この生理的反応と同時に、脳の機能の変化が起きます。
・ 複雑な思考が鈍り、二者択一的思考になる。
・ 他者の心情に対する共鳴が起きにくくなる
・ 将来的な見通しが立てられなくなり、近視眼的になる。
・ 因果関係を把握することが困難になる。
・ 物事を悲観的にとらえる。
 これも、逃げたり戦ったりする仕組みです。余計なことを考えずに、危険から逃げたり戦って危険を無くすために集中することができるようになるわけです。
 人間は、生命身体の危険がある場合だけでなく、人間として仲間の中で尊重されて生きることができなくなるという危険を感じた時も、同様に生理的変化や脳の動きの変化が起きてしまいます。これは、無意識のうちに変化が起きてしまいます。なかなかそれを自覚することができないようです。
 これらの生きる仕組みが、自死のメカニズムの理解の基盤になります。

2 危険解消要求


 自死のメカニズムに関して、危険を感じて危険を解消するための逃走ないし闘争という解消行動をすると述べました。しかし、その間に危険を解消したいという要求(危険解消要求)が起きていると考えると色々なことが見えてきます。
チャートで説明します。
   危険の覚知
      ↓
   危険解消要求
   ↙   ↘
 逃走    闘争   (危険解消行動)
      
身体生命の危険は、長く続かないことが多いので、危険を覚知してから、危険解消要求が起きて、逃走、闘争の危険解消行動をして、危険を回避するまで一瞬で終わることが多いです。危険を回避できなくて危険が発生するということも一瞬のことです。例えば、転びそうになり、転ぶ危険を感じ、転びたくないという要求が起き、足を踏ん張るという行動を起こす場合等が典型でしょう。
 仲間として尊重されなくなるという危険は、例えばいじめだったり、例えばパワハラであったり、持続することが多いのです。一瞬で終わることはありません。危険が持続することが特徴です。
 危険解消要求が起きているのに、危険がいつまでも解消しないということが起きてしまいます。そうすると、危険解消要求は、どんどん大きくなってゆくようです。

3 危険解消要求の肥大化の影響


 危険解消要求が大きくなりすぎると、危険に対する反応も大きくなります。
 つまり、交感神経の活性化が大きくなり、常時不安が係属し、睡眠障害が起きてきます。さらに、脳の活動の変化も持続的なものになり、特に二者択一的思考が顕著になって行きます。物事の機微が理解できなくなり、白か黒か、正義か悪か、良いのかダメなのかという傾向が強くなってゆきます。危険から逃れようという意識が全開になるわけですから、自己防衛的な意識が敏感になり、悲観的傾向も強くなってしまいます。
 これらの脳活動が持続してしまうと、人間の能力は破綻してしまいます。もともとは、身体生命の危険に対して反応して危険を回避するためのシステムですから、そもそもその危険が長時間持続するということは想定されていなくて、対応するようにはできていないわけです。
 人間のこころの始まりの時は、生まれてから死ぬまで同じ群れで生活していましたから(約200万年前と言われています。)、あまり対人関係的危機が持続するようなことはなかったようですし、医学なんてものはなかったですから、余命半年等と言う心配もなかったのですから、それは仕方がないことだと思います。
 持続する危険に対応できないと人間の思考は破綻していくことになります。

4 死を望む心理 危険解消要求の絶対化

 これまで見てきたように、危険解消要求は、この要求が起きることによって、危険解消行動を始めるきっかけになるのだから、生きる仕組みです。しかし、危険解消要求が持続かして、肥大化すると、生きる仕組みが破綻していきます。生理的変化によって睡眠が妨げられることによって、この破綻が増強されてしまいます。
 第1に、悲観的傾向が強くなり、対人関係のトラブルは解消することができないと思うようになって行きます。第2に、二者択一的傾向が強くなり、この解消できないトラブルに苦しみ続けるか死ぬかという思考が生まれてきます。第3に、長期的な展望に立つことができなくなるし、折衷的な思考、例えば一次希望が無理でも、一段下げて希望をつなごうという考えを持つことができません。危険回避ができないならば死ぬしかないという、他の選択肢を考えつかない状態です。
 そうして、とにかく危険を回避したいという要求が肥大化し、絶対化していきます。その他すべての要求よりも危険解消要求が優先かされます。即ち、危険が回避できるならば生物学的な意味で死んでもかまわないという意識が生まれてしまいます。これが希死念慮です。このような状態が絶望と言われる状態なのでしょう。対人関係的危険が解決することに絶望を抱いている人たちは、「死ねば苦しみが無くなる」ということを考えつくと、ほんのりと明るく、温かい思いをするそうです。
 生きるための仕組みが破綻することによって生物学的な意味での死に至る行動に出てしまうという矛盾が生まれる瞬間です。

5 希死念慮から自死へ


 希死念慮が強くなって行くと、「自分は死ななくてはならない」という気持ちになって行くそうです。こうなってしまうと「積極的に死のう」というのではなく、自死行為を「止めることができなくなる」ということの方が近いようです。
 この意味で、自死者が死を「選択した」という言葉が実態を著してはいないと思うのです。選択したというよりも、他の選択肢を持てない状態だからです。
 また、本当は「死にたい」と思っているわけでもないことはご理解いただけると思います。あくまでも人間として生きたい、仲間の中で尊重されて生きたいという気持ちから出発していることだと思うのです。人間として生きたいという思いが強く、それがかなえられないということから、生きる仕組みが誤作動を起こしてしまう。これが自死の本質だと考えています。